小林秀雄の言葉を思い出す。
「西洋文明の模倣が行き詰まっている等というが、これはまったくおかしなことで、模倣の先には真の理解が現れざるを得ないはずである」
大要、このような意味だったと思う。
人真似をしたくないと思い、でも人真似から始めようと思い・・・というような葛藤が生じるたびに、この言葉がちらつく。
個性を出すことをよしとする風潮があるが、私は反対だ。
個性などというのは、真似の先にあり、最初から個性を出させようなどとすると、ろくなものにはならない、と思う。
囲碁の世界は、今、韓国・中国が強い。特に中国が強い。
彼らは、英才教育を徹底的に受けており、答えの出せる部分では、ほとんど間違えない(らしい)。それにもかかわらず、彼らの碁には個性がある。それも、見てわかるほどの強烈な個性が。
一体なぜなのか、不思議になる。強さを求めると、同じような棋士ばかりになりそうな気もするのだが・・・
ただ、彼らが、本当に強くなろうとして、それぞれが最善を尽くした結果なのは間違いない。このようにして生み出される個性こそが、個性と呼ばれるべきではないだろうか。